春ははな……

by 宮沢さとり

ピーーーーーッ!
 体育館にホイッスルの音が響く。コートを駆けていた面々はピタリと動きを止め、コートの外で声出しをしていた面々も声を止めて、そのホイッスルの吹き手の方を注視した。
「集合!」
 ホイッスルを口から外した晴子が、澄んだよく通る声でそう号令をかけると、一同はドドドドッと晴子と安西のいる体育館の一角に集合した。
 ほんの一年少し前には、集合すると一重の円陣で済んでしまう程の人数しかいなかった湘北高校男子バスケ部だが、いまや二重でも足りない程の部員がいた。
 部員が著しく増えたのには、一年半前の夏にインターハイに出場したことがものをいっている。
 まず、ネームバリューで新入生が大量に釣れた。
 そして湘北を「強い」と思って入部してきたそれらの新入生は、練習の厳しさにそうそう音をあげなかった。したがって、途中退部したのは一部で済み、結果として新入生が大量に残ったのである。
 そのおかげで、宮城・安田・潮崎・角田が卒業したこの春休みも、バスケ部には三十人近い部員がいたのであった。

 集合先にいた安西は部員が三倍になってもちっとも変わらなかった。グルリと全員の顔を見渡すと満足そうに「ホッホッホ」と笑いながら言った。
「今日はこの辺で終わりにしましょう。晴子くん、連絡事項をお願いします」
 かれこれマネージャー業も一年半。すっかり板についた晴子が、安西の要請に応じて、口を開いた。
「はい。以前にも連絡しましたけど、明日の四月一日は新入生の入学説明会があるため、体育館が使えません。なので、明日は一日中練習はお休みです」
 それを聞いて、部員は若干そわそわし始める。バスケットに青春をかけている少年達でも、やはりたまの「休み」という言葉の響きには心が騒ぐものなのである。
「この後、体育館に椅子を並べるそうなので、今日は居残り練習もしないで下さい。特にキャプテンと副キャプテン、今晩と明日は体育館を使えないって、忘れないで下さいね?」
 晴子の念押しに、一同はどっと笑って、その二人を見た。バスケ部は練習熱心な部だが、中でも主将と副主将は練習馬鹿で居残りの常習だった。つい先日も練習に熱が入る余り、閉門時間を軽く超えてしまい、見回りの用務員にお小言をくらったばかりだった。
 規則を守らないのは困ったものだが、この二人の練習熱心なところを、安西は好ましく、頼もしく思っていたので、にこにこと二人を見ていた。
 晴子の台詞に対し、キャプテンである桜木花道は、
「だ、大丈夫っす、ハルコさん!!」
と言い、副キャプテンである流川楓は、無愛想に
「……っす……」
と答えた。
 その反応を見て、安西は(おや?)と思った。フェミニストの花道が晴子に対し文句の一つも言わないのは予測の範囲内だが、流川が不服の色を顔にも出さずに頷いたのが意外だったのだ。不承不承従うにしろ、体育館が使えないとなったら「不満」と顔に出すのが流川という男だ。
 ちなみに体育館使用禁止と言ったのが安西、或いは男性教師や男子生徒だったとしたら、花道も不服たらたらで、こちらは流川とは異なり顔に出すのみならず、口にも出してぶーぶー文句を言ったことだろう。
(……桜木君とどこかのコートで1on1の約束でもしてあるんでしょうかねえ……)
 安西はそう思って納得した。
 桜木花道と流川楓の二人は毎日喧嘩が絶えず、外部からは「仲が悪い」と思われがちだが、バスケ部員など、この二人をよく知る人間には、それが傍迷惑ではあるが二人のコミュニケーションであると知っている。実際、この二人はいいライバル関係であり、「喧嘩友達」と言える間柄なのである。
 ……しかし、実はこの二人がそれ以上に仲良しな間柄であることを知るものは、あんまりいない。知っているのは今年卒業していった彩子と、花道の悪友である水戸洋平位のものであろうか。
「……以上でいいですか?」
 連絡事項を伝え終わって、晴子は最後に安西に確認をとった。安西が顎の肉を揺らして頷くと、晴子は、桜木と流川にも何か連絡がないか確認をとった。解散間際には毎回一応確認をとるが、この二人が何かを連絡した試しはない。実務上ほとんど役に立たないこの二人は、事務や連絡は晴子(と他のマネージャー)に任せっぱなしの状態なのだった。
 案の定今日も二人は首を横に振ったので、晴子は一同に言った。
「それでは解散にします」
「お疲れ様でしたー!」

 解散の合図と共に、当番の者はモップ掛けに走り、そうでない者は三々五々部室へと着替えに向かった。いずれも何やらそわそわしているのは、明日の休養日に思いをはせているからだろうか。実際、明日何処に行こうかとか何をしようかとか、話し合っている部員もいた。
 そんな浮付いた空気の中、部室に戻った桜木花道は一際そわそわしていた。隣で黙々と着替える流川楓をちらちらと見ながら、もたもたと着替えていた。
 何分、明日・四月一日は花道にとって特別の日なのだ。誕生日、なのである。
(誕生日……やっぱり恋人と過ごすのが基本だよなあ……)
と、夢見る男・花道は思った。恋人が出来る前から、誕生日を彼女と過ごすのは、花道の野望の一つだった。実際には「彼女」でない「恋人」ができてしまったわけだが、それでも一緒に過ごしたいという夢は潰えていなかった。
 花道の恋人は流川だったので、別段誕生日でなくても、ほぼ毎日毎日部活のため体育館で一緒に過ごしてはいるのだ。しかし明日は体育館が使えず、部活がない。ということは一緒に過ごすためには、特別の約束がいるということだ。
(……デ、デートの申込みかなっ)
とか焦って考えている花道は、すっかり忘れていた。たまの部活の休養日には、二人で公園でバスケをすることが暗黙のうちに決まっている。だから別段、特別の約束がなくても、花道は明日も流川と一緒に過ごせるには違いないのだ。
 しかしバスケモードでなく恋愛モードに入ってしまった花道の頭はそんなことにも気付けないでいた。
(去年は……陵南との練習試合だったんだよな……)
 一年前。既にその時には流川楓と恋仲だった花道は、練習試合だったので堂々と流川と会うことが出来、更にその晩を流川と二人で過ごした。試合には負けてしまったが、誕生日としては大変に幸せな一日だった。
(……四月一日の晩に一緒に過ごすのもいーけど……今年は今晩から一緒に過ごしてーよな……)
 一緒に一つの布団で仲良くなり、そうして日付が変わるなり、流川から「おめでとう」なーんて言われたら……。
 桜木花道はうっとりとそんな甘い夢を見ていた。
「どあほう」
 そんな甘い夢を打ち砕くように、甘くない声がかかった。……そんな呼び方をするのは、花道の最愛の恋人・流川だけである。
「何だ、キツネッ」
 一方の花道も、しかし、こんな呼び方をしているのだから、お互い様であろう。
「先に帰っけど……」
「あ、そう……」
 あっさりとした流川の台詞に、花道はがっくりと肩を落とした。今晩から一緒に過ごしたかった花道の野望を打ち砕く言葉だったからだ。しかしせめて明日を一緒に過ごす約束だけは取り付けよう!と口を開こうとした花道に、流川が出入口へと足を向けながら、通りすがりにひっそりと言った。
「後でてめーんち行く」
 ぱあああっと明るい表情になった花道の顔も見ずに、流川はそのまま部室を出て行った。


 一人きりの家で、花道は上機嫌に食事を用意し、上機嫌にそれを食した。家庭の事情で独り暮らしをしている桜木花道は、料理もそれなりにこなす。部活帰りに花道宅に寄ったり泊まったりした時などは、流川もその恩恵に与るのが常だった。しかし今晩は流川は花道宅に直行しなかった。ということは、家で飯を食ってくる筈である。――そう判断して、一人で食事を済ませた花道だった。
 花道は本当は一人での食事は好きではない。が、今晩は後が楽しみで、つい上機嫌に「一人での食事」をこなしてしまったのだった。
 夜から来るからには泊まって行ってくれるに違いないだろう。
(日が変わる瞬間を恋人と二人であつあつに……)
……過ごせそうだと、花道はうっとりと夢を見る。それに明日は春休みで学校はなく、おまけに部活も休みだ。多少無理させても特に問題はないだろう。
(誕生日だから大目に見てくれっかもしれねーし……)
 そんなことを考えて、気持ち的に落ち着かなくなった花道は、何となく部屋を片付けたりして流川を待った。
 ふと時計に目をやると、既に十一時を回っている。
「流川のやつ、遅いな……」
 呟いた瞬間に、階段を上る足音がして、玄関の扉がドンドンっと叩かれた。慌てて玄関に向かい、鍵を開けて扉を開き、
「遅かったな、上がれよ……」
と、流川を招じ入れようとした花道に反して、流川は玄関に足を踏み入れようとはしなかった。その代わりにこう言った。
「出掛けるぞ、上着持って来い」
「あぁ?」
 急な台詞に異議を唱える間もなく、花道は拉致されるかのごとく外に連れ出された。


 スタスタスタスタと、流川はひたすら突進した。仕方がないので花道も同じペースで後を追う。
「おい、ルカワ。何処に……」
 行くんだ?と訊こうとした花道の台詞を遮って、
「ちょっと待ってろ」
と言うと、流川はコンビニに入っていった。花道の家の最寄のコンビニであるそこは、花道は勿論、流川もよく来る店だ。迷いもせずにまっすぐお弁当のコーナーに向かうと、流川はおにぎりを片手に三つずつ、合計六つ持つとレジに向かった。
 店の外でそんな流川の様子を見ていた花道は、「ありがとうございましたー」の声に送られて、コンビニ袋を片手に下げて、店を出てきた流川に、
「てめー、晩飯まだなのか?」
と訊いた。
「……晩飯は家で食った。これは朝飯」
と答えると流川は、またスタスタと駅の方に向かって歩き始めた。
 どうやら少なくとも朝飯が要る位の時間までは出掛けるつもりらしい。
「おーい、ルカワ。何処に行くつもりなんだ、てめー」
 花道は再度訊いてみたが、
「……いーからついてこい」
としか流川は言わなかった。
(……何を企んでるんだ……?)
 花道はそう思った。しかし、やっぱりとりあえず大人しく後をついていた。先頭に立って歩きたい性格の花道にしては珍しいことだ。――花道は実はものすごく機嫌がよかったのである。
 何故というに、今日この時間にお出掛けするからには、そして朝御飯が要るような時間まで出掛けるからには、きっと間違いなく明日の誕生日絡みだと思うのだ。
 自分の誕生日のために、流川が何かをしようと企んでくれている。そのこと自体がすごく嬉しかったから、行き先についても深くは追求せず、黙って後を歩いているのであった。
 そうこうするうちに流川は花道宅の最寄り駅から江ノ電に乗り、そうして藤沢まで出た。そして藤沢のJRの改札前まで行くと、流川はその場に立ち止まった。
「……ルカワ?」
 JRに乗るなら乗るで、さっさと改札をくぐればいいものを、何をしているんだろうかと、花道はいぶかしんだ。
 流川は改札前で、駅の時計を睨みつけていた。そろそろ日が変わる刻限だった。
(……一つ布団で誕生日を迎えるのはもう無理だな……。またいつか、かな……)
 花道はそう思った。
 そして短針と長針が重なった時。流川が「よし」と言って花道の方を向いた。0時。ということは花道の誕生日である。「おめでとう」の一言でも聞けるのだろうかとどきまぎする花道を他所に、流川は言った。
「どあほう、行くぞ」
 そうして、駅員のいる改札口へスタスタと歩いていった。
 ロマンチックの欠片もない流川の態度に花道はちょっとがっくりした。が、次の瞬間には流川の行動を慌てて止めようとした。
「……って、おいっ。切符買ってないだろーが!」
 しかし流川は何処吹く風で、上着のポケットから取り出した大きい切符(のようなもの)を取り出して、駅員に、
「これで、こいつと二人」
と言った。駅員は心得たように、二箇所に検札印を押した。
「早く来い、どあほう」
「???」
 なんだかよくわからないながらも、花道は流川に手招きされるままに、駅員の前を通って改札を抜けた。
「? それ一枚で二人分の切符なのか?」
「……まー、そんなようなもん、らしい」
 流川もよくわかってないのか、そういう回答が返ってきた。
 とりあえず流川が進むまま、東海道本線下りホームへと向かった。
 そこで待つこと、数分。やってきた平塚行きの東海道本線に流川は乗り込んだ。後をついて電車に乗りながら、花道は訊いた。
「……平塚に行くのか?」
「……平塚で乗り換える」
 そうとだけ、流川は言った。

 藤沢から、辻堂、茅ヶ崎を経て、十数分で電車は平塚駅の3番線に着いた。降りると流川は反対側の4番線に行って立ち止まった。勿論花道も後をついていった。
 どうやらここに来る電車に乗るらしい、と見て取って、花道は行き先表示を確認した。次にこの番線に来るのは、〇時四十四分発のムーンライトながら、らしい。
(ムーンライトながら?)
 聞き覚えのない電車に、花道は首を傾げた。流川がどこかに花道を連れて行こうとしている。それは嬉しい。嬉しいが、やはりどこに行くのかは気になる。だから花道は、手持ち無沙汰そうに電車の来る方向を眺めている流川を、ちょっと脅してみた。
「ルカワ、いーかげんに、何処に何しに行くか位言いやがれ。言わねーと、ムーンライトながらとかには乗らねーぞ?」
 すると、流川は花道の方に視線をやり、渋々というように言った。
「……花見に行く」
(花見?)
 思い出すことがあった。去年の花道の誕生日には、練習試合の帰りに二人で夜桜を見たのだ。もしかしてそれを覚えていて、誕生日に桜を見ようと思ってくれたのだろうかと、花道はほんわかした気持ちになった。
(……でも今年、桜もう散ってるよな?)
 神奈川ではとうに満開は過ぎていた。ニュースによると何でも観測史上最高という位、桜の開花の早い年だったらしい。花を残している桜もないではないが、あんまり花見という雰囲気ではないだろう。
(別に、ルカワと一緒で、ルカワが見せてくれようとしてんだから、葉桜でも、何なら葉っぱしか残ってなくてもいーけどよ……)
 そんなことを考えている花道に、流川が話し掛けた。
「……忘れてた。どあほう、これ持っておけ」
 そして差し出したものは、ムーンライトながらの指定席券だった。平塚から名古屋までとある。
「名古屋〜!?お前、名古屋まで行くつもりかー?!」
 確かに、その辺まで行けば、もしかすると桜も残っている、のかもしれない。しかし何でまたそんな遠くに……、桜の名所でもあるのか?と思う花道に、流川は言った。
「……名古屋も通るけど、目的地はそこじゃねえ」
 どうやら流川は名古屋よりも遠くに行くつもりらしい。だがまだ最終目的地を明かすつもりはないらしく、それ以上は口を引き結んで何も語らなかった。
(……ま、いっか)
 花道は訊き出すのを諦めた。しょせん、何処に行くんでも流川と過ごせるならいいやと思っている花道だった。

 4番線で待つこと二十分程。ムーンライトながらは定刻どおりにやってきた。その電車は夜中だというのに座席がほぼ全部埋まっているようだった。
「……なんだよ、この電車……」
「……貧乏旅行をする奴の定番電車らしい」
 そんな会話をしつつ、一号車に乗り込む。普通の座席の方に行こうとした花道は、
「どあほう、オレ達の席はこっちだ」
と流川に止められた。
「え、でも一号車だろ……?」
と言おうとして花道は、流川が指し示した席を見て、少しびっくりした。
 一号車の他の座席とは壁で区切られているそこは、一応一号車に数えられているらしかった。区切られた中に四人掛けボックス席が2つ、つまり8人分の座席があるのだが、その席自体もなんだか、普通の4人掛けボックス席より豪華に見える。
「……セミコンパートメント席って言うらしい。料金は普通と一緒だ」
 言って流川はさっさと自分の持っている指定席券の示す場所に腰を下ろした。花道もそれに続いてその隣に腰を下ろす。一見豪華そうでも、特に広いわけではないそのボックス席は、二人が並んで座ると窮屈だった。しかし堂々と流川とぴったりくっついていられるので、花道はなかなかご満悦だった。
 そんな、でかくて目つきの悪い、一見怖そうな二人が、窮屈そうに身を寄せ合って席に収まっている姿は人目を引いていた。特に、同じセミコンパートメント席のほかの六人は、興味ありげにちらちらと見ながら、寝たふりや本を読むふりをしていたが、花道も流川も傍若無人なタチだったので、そんなことには気付かないままだった。
 ――そうして電車は平塚駅を出発した。
 しばらくすると車掌がチケットを確認しにやってきた。流川は眠そうに目をしぱしぱさせながら、ムーンライトながらの指定席券と、改札ではんこを二つ押してもらった券とを出した。そして花道にも
「どあほう、さっき渡した指定席の券……」
と言って券を出させた。車掌は検札を済ませると花道に指定席券を一枚、流川に残りの券を返した。そして車掌はセミコンパートメント席を立ち去った。どうやら他の面々の検札は道中既に済ませているらしい。
「おい、ルカワ……」
 指定席券じゃない券は、きっと乗車券だろうが、改札を二人で通れて、今も二人分の乗車券として車掌が認めたらしいその券は、一体何なんだろう。花道はそう思って、その券を見せてもらおうと流川に声を掛けたが、この時には既に流川は眠っていた。車掌から券を返してもらった次の瞬間には寝に入っていたらしい……。
(……まあ、こいつにしちゃ夜更かしだよな……)
 そろそろ一時近い。こんな時間まで流川が起きていたのは、追試対策の勉強会の時位じゃなかろうか。
 滅多にしない夜更かしをしてまで、流川が自分をどこかに連れて行こうとしている。流川はまだ何も言わないけど多分それは誕生日祝いで。
 ――花道は幸せな気持ちで流川の寝顔を眺めた。それから自分も睡眠をとるために、目を閉じた。


 ガヤガヤと人の気配を感じて、花道は目を覚ました。気付けば、花道は、花道の肩に頭を乗せて寝ている流川の頭を枕にして寝ていたらしい。寄り添って寝ていたという事実に、何となく幸せな気分になる花道だった。
 電車はどこかの駅で停車していて、外はもうすっかり明るくなっていた。
「……どこだ、ここ」
 肩を枕にしている流川を起こさないように気をつけて(もっとも流川がそう簡単に起きる筈もないのだが)ホームに目をやると「名古屋」とある。……指定席券は名古屋までだった筈である。
 花道は慌てて、自分の肩から流川をはがすと、肩をぐらぐら揺すって流川を起こそうとした。
「ルカワっ!起きろ!!名古屋だぞ!降りるんじゃねーのか!?」
「……オレの眠りを妨げるやつは……」
「寝ぼけてんじゃねぇ!」
 耳元で怒鳴ると、さすがの流川も少し、目を開けて、花道の肩から頭を浮かせた。
「……どあほう……この電車の終点まで乗る……。もー少し寝かせろ……」
 それだけ言うと、流川はまた花道の肩に懐き、夢の世界へ旅立ってしまった。
「って指定席、名古屋までじゃねーかよっ。んじゃこの席に座ってたらまずいんじゃねーのか?!」
 花道のその問いには、向かいに座っていた大学生風の女の人が答えてくれた。
「……あのー、この電車なら名古屋からは自由席だから。座ってて平気よ?」
「そ、そーなんすか?すいません、ありがとうゴザイマス!!」
 相変わらず女の人にはからきし弱い花道は緊張してそう答え、流川を起こそうとして掴んでいた肩から手を離した。

 その電車は名古屋にはけっこう長い間停車し、六時二十分に出発した。何駅かを過ぎ、車内放送が「次は終点の大垣……」と言った時、花道は流川を叩き起こしにかかった。
「おいっ、ルカワっ。大垣だぞっ。降りるって言ったよなっ」
 大垣、と聞くと、流川は珍しく一度で速やかに目を覚ました。
「どあほう、ダッシュすんぞ。七時一分発の東海道本線網干行きに乗る」
 そうして立ち上がるとドアの前に急ぐ。花道も一緒にドアの前に向かったが、そこには既に何人もが並んでいて、ドアが開くのを今か今かと待ち構えていた。
「……なんだ?」
「……さっき言った電車の席を取る競争になるらしー」
 流川がそう解説を加えた。「競争」と聞いて、花道の目がきらーんと光った。
「ホホウ。椅子取りゲームかね。この天才に任せい!!」
 ――そして電車が大垣駅に着き、ドアが開く。それを待ち構えていた人達が各車両のドアからドドドドッと走り出して来た。当然、花道や流川もそれに続く。
 幸いにして、花道達のいた一号車一番後ろは、階段の割と近くであった。すぐさま階段に辿り着き、二段抜かしで階段を上ると……上り切る頃には、もう辺りに敵なし状態であった。要するに、真っ先に階上に辿り付いたのである。
「東海道線網干行き……。あそこだな」
 流川が該当の電車を見つけ、そこの階段を今度は勢いよく下った。
「七時一分発……間違いねー。これに乗るぞ」
 二人はさっさと電車に乗り込み、4人掛けボックス席の窓際に向かい合って座った。
「さすが天才。椅子取りゲームも一番!」
 はっはっはっと花道が高笑いしていると、ようやく後の面々もこの電車まで辿り着いてきた。そうして各々席を確保し、あっという間に電車は満席になった。
 花道と流川の隣の席は、何分、でかくて怖そうな二人連れが陣取っているために、けっこう後まで空席だったが、勇気ある若者が二人、「……ここ空いてますか?」と確認のうえ、恐る恐るといった態で腰をかけた。
 電車が走り出すと、流川はずっと片手に持っていたコンビニ袋からおにぎりを取り出し、
「どあほう、飯」
と言って、三つを花道に渡した。花道は遠慮なく受け取り、そうして電車の中で朝御飯となった。
「座れてよかったな、飯食うのに」
 花道がもぐもぐと食べながらそう言うと、流川が言った。
「……大垣ではダッシュして席をとれって言われた」
「あ?」
 誰に?と問う前に、流川が続けて言った。
「二時間は乗るんだから、座れれば食ったり寝たりできるって」
「二……時間〜?!」
 誰がそう流川に教えたかを気にする前に、その時間にびっくりしてしまった花道だった。名古屋を越えて、さっき岐阜も通った。更に二時間というと、それは一体、何処まで辿り着くのだろうか。……花道は頭に日本列島の姿を思い浮かべてみた。が、地理は苦手で(地理も、というべきか)、日本列島のどの辺が岐阜かもよくわからなかった。
 花道が考えている間に、おにぎりを三つ食べ終わったらしい流川が、
「……寝る」
と言うなり窓枠に腕を置いて、それを枕に寝に入った。どうやら、大垣までの睡眠では全然足りていなかったらしい。
 今度は向かい合って座っているので、隣り合って座っていた先程とは、見られる流川の寝顔が違った。黒くてまっすぐな髪の毛が顔の前に落ちて、寝顔を隠していた。
 ふと花道は今回の旅を思った。
 後をついて歩いたり、隣り合って寄り添ったり、肩を並べて歩いたり走ったり、向かい合って話したり、見詰めたり……。形はいろいろあれど、ずっと二人で来た。きっとこんな風にこれから先も、隣り合ったり向かい合ったり、時には背中合わせになってみたりしながら、ずっと一緒に進んでいくんだろう。
(……でも一番俺達に似合いの形って、向かい合って対決していることか、やっぱ……)
 恋人だとかチームメイトであるとかより前に、やっぱり流川は花道にとって好敵手だった。
(……1on1したくなったな……)
 そう思いながら、花道もまた夢の世界に旅立った。

 一時間ほど眠って、花道は目を覚ました。車内には通勤と思しき人達が乗り込んでおり、そういえば通勤の時間か、と花道は思い至った。
(……そーいやー、何処で降りるんだか聞いてねーな……)
 流川がこんなにぐっすり寝ていては、乗り過ごすのではないかと花道は不安になる。一度起こして降りる駅を聞き出すか?とも思ったが、ふと流川の台詞を思い出した。
 二時間は乗る、と流川は言った。確か大垣の駅を出たのは七時位だった。ということは、九時位まで乗っている筈だ。
(……じゃあ、八時五十分位に起こせばいいか……)
 ホームの時計を確認すると、それにはまだ三十分程あった。花道は今度は自分は寝ないよう、ガラスの向こうの見慣れない景色を堪能することにした。

「……ルカワ、起きろ。そろそろ二時間経つぞ」
 景色を堪能し始めて、しばらく。いくつめかの駅で、ホームの時計が50分を指していたので、花道は足元の流川に軽く蹴りを入れた。流川にしては珍しく、割とあっさりと目を覚ました。やはりさすがに熟睡はしていなかったのかもしれない。
「……どあほう、ここ、どこだ?」
「あ?ああ、えーと……山科、だってよ。次が京都……、きょうとぉ!?」
 思わず花道はびっくりした。京都なんかにまで来ていたとは全然気付いてなかったのである。
「京都の、次の次の駅で降りる」
と、流川が言った。
「何て駅だ?」
「……向日町」


 JR向日町の駅に着くと、流川は藤沢の駅に入る時と同様に、係員のいる改札口に向かった。二つはんこの押された切符を見せると、係員は切符を回収もせずに二人を通してくれた。
「……切符渡さないでいーんか?」
 気になって花道が訊くと、流川が言った。
「へーきだ。この切符、帰りも使えるから」
 往復切符なのか、と花道は納得した。……実際には違うのだが、流川の足りない説明では花道が誤解するのも当然であろう。
 向日町がようやく目的地かと花道は思っていたが、駅を出ると流川は「急げ、どあほう。バスに乗り損なう」と花道を急かしながらスタスタと猛スピードで歩き始めた。
 どうやらまだバスに乗るらしい。後を同じ速度で歩きながら、花道は訊いた。
「バスって駅前から出ないんか?」
「乗るバスは阪急京都線の駅前から出る。こっから十分位らしー」
 ……公表値が十分なら、この二人がこの勢いで歩けばおそらく五分くらいであろう。
「九時十五分発のに乗るから。間に合うとは思う……けど、遅れるとまじーから急ぐ」
と、流川は付け加えて言った。
「その時間のバスでないとなんねーのか?」
 遅れるとまずいという言葉に、花道はそう訊いた。
「……そーいうわけじゃねーけど……それ乗り過ごすと次のバスは二時間四十分後だ」
 それを聞いて花道は一瞬顔色を失った。二時間四十分。バスケの試合が下手したら3試合できてしまう。
(ど、どーいう辺鄙な場所に行くんだ?)
 そうビビりながら、とりあえず急いで歩く花道だった。

 そうして、阪急京都線の東向日の駅前に着いた時、そのバスロータリーにはバスが待っていた。「小塩行」とある。
「……間に合ったか」
 ほっと流川は安堵の表情を浮かべた。
「……あれに乗るんだな?」
「そー」
 そして二人はバスに乗り込んだ。バスに乗っている人はそう多くはなく、席は空いていたので、最後部の座席に座った。
 ほどなくして、バスは発車した。京都は折りしも桜が満開の時だった。バスが行く道沿いの家にも満開の桜があったりなどして、目を楽しませてくれた。そして外の景色を見ながら、花道は訊いた。
「ルカワー……。目的地はそろそろ近いんか?」
「……このバスの終点から、ちょっと歩いたら着く」
「そーか」
 答えながら、少し残念に思っている自分に花道は気付いた。一体どんな遠くまで行くんだ?とビビりもしたし、「どんな遠くまで」と思いはしても、まさか京都まで来るとも思っていなかった。けれども目的地が近いと知ると、もっと長く流川と二人で旅をしていたかった気がするのだ。
(……二人旅っていうのもいーよなー……)
 来年の春休みには卒業旅行なんてものに誘ってみようかと、花道は夢見た。一週間位、あてもなく二人でさまようのも楽しいかもしれない。
(……でも、ボールは持っていかないとなー。あー、いっそ、日本全国の街中のバスケットリングを制覇する旅ってーのもいーかもしんねーな……)
 そんなことをとりとめもなく考えていると、ここまでの道中ずっと坂道を登ってきていたバスが、グルリと百八十度方向変換をした。するとそこが終点だった。どうやら、折り返し出発するためにUターンをしたようだ。
 終点で降りた人は、二人のほかにもいた。一部はバス停脇の坂道を登って行った。十輪寺、と名前が出ていたので、おそらくその寺に行ったのだろう。しかし流川の目的はその寺ではないらしい。
「どあほう、こっちだ」
と言うと、車道の坂道に、つまりこれまでバスが登ってきた道の延長の道に流川は足を踏み出した。勿論花道も後に続く。
 道は延々と上っていた。しばらくは家や畑があったりして、小さな食べ物屋も一軒あったりしたが、次第次第に両側に山が迫ってきた。道はずっと舗装されていたが、特に歩道のスペースは用意されていない。実際歩いている人には全然お目にかからなかった。時折車や観光バスが彼らを追い越していったが。
 観光バスが行くからには、少なくともこの先には観光に値するところがあるんだろう。花道はそう思った。何しろ、花道は未だにどこに行くのか知らない。知っているのは行く先に桜があるということだけである。
 黙々と歩くこと二十分。花道が言った。
「……ルカワ……、まだ先か?」
 彼らの速度で二十分である。普通の人なら三十分近くかかっているだろう。
「……もう少し……だと思う」
 流川も若干自信なげに言った。そうこうするうちに、道の右手にけっこう大きなお店があった。店先に漬物や筍が並んでいて、「お食事処」の旗も出ている。どうやら、土産物屋兼食事処らしい。
 こんなところで営業が成り立つのだろうかと余計な心配をしながら、二人はその店の前を通り過ぎた。
 それからまた山の中の車道を歩くことしばらく。急に道の片側が駐車場になっていた。
「……何の駐車場だよ、これ……」
 花道は思わず呟いた。それも当然な位、いきなり道が駐車場になったのである。二人を途中で追い抜いた観光バスはどうやらここに駐車しているようだった。
「……着いた、な」
 ほっと一息ついて、流川が言った。
「……ここが目的地なんか?」
「……もうちょっと上かも」
 そして二人が駐車場を上りきると(駐車場も坂道になっていた)、その右手に歩行者用の上り坂があった。
「……どあほう、これ登ったら、多分着く」
「そーか、もうちょっとだな」
 そう言って二人は意気揚々とその急坂を登り始めた。
申し訳程度に手すりのあるその小道は、かなり登り辛かった。一歩一歩確実に歩いていた花道が九十九折の最初の曲がり角で下を見ると、木々の間から先程通ってきた駐車場がかなり下の方に見えた。いかに急かが知れるというものである。
 そのまま花道は視線を次の道にやって……そして両脇が楓の木であることに気付いた。ずらっと続く楓の若葉がさわさわと風に揺られている。
 楓の木は、今の花道にとって桜の木と同様に特別な木である。嬉しくなって顔をほころばせながら、隣に立つ流川に言った。
「ここ、お前の道だなあ」
 しかし流川は、フーヤレヤレとため息をつき、
「どあほう……」
と返した。ムッとして文句を言おうとした花道だったが、口に出す前に、流川の腕の動きに目をとられた。流川はすっと右腕を動かして、地面を指差したのだ。
 見てみろ、と言わんばかりのその行動につられて花道が地面を見ると、そこには桜の花びらがあった。ふと気付けば今もなお、花びらが降り注いでくる。
 どこから?と思って見上げると、上の方には桜の木があった。花びらはそこから降ってくるのだ。
(オレの道なんじゃなくて、てめーの道でもあるだろ?)
 声に出さない流川の台詞を読み取って、花道は「へへっ」と照れ臭そうに笑った。
 そうして二人は、桜の花びらが降り注ぐ楓の並木の中を、嬉しく歩いたのだった。
 しかし、この道は意外に長く、そうして登りにくかった。桜と楓のおかげで嬉しかったし、日ごろから身体を鍛えているので、二人は楽々と息も切らさずに登りきることができたが、普段そんなに運動していないような人には、この道はけっこう辛いだろう。実際、観光バスでさっきの駐車場まで来たのであろうおばさん達は、かなりこわごわと坂を登っていた。
「観光バスであそこまで来ててもこの坂道は登らないとなんねーのか……。随分、大変なところだな……」
 花道はぼそりと呟いた。
(その方がご利益がありそーな気もするな)
と思いながら。
 ところがようやく二人が坂道を登りきると、その右手には登る階段が続いていたのだが、左手下方には左手下方には自家用車用の駐車場があった。
「なんだあ?車で来ればそこまで来られるのか?」
 ご利益なさそーじゃん、と、ぶつぶつ呟きながら、花道は階段を登った。するとそこにようやく山門があった。扁額には「善峯寺」とある。
「……ぜんほーじ?」
 花道が読むと、流川が言った。
「よしみねでら、だ」
 流川はさっさと山門の下の受付に進んだ。二人分の拝観料を払って、案内図をもらい、中にずかずかと踏み込んで行った。花道も慌てて後に続いて山門をくぐった。
 山門の先では、流川が立ち止まって案内図を見ていた。花道が追い付くと、
「どあほう、こっちだ」
と言うと正面の階段を上った。そこには観音堂があったが、流川は目もくれずに右に曲がった。
「お、おい、お参りしないんか?」
 寺にきたら賽銭をあげてお参りをして、おみくじをひくもの、と思っている花道が慌てて流川を呼び止めたが、流川は気にせずにずんずんと次の階段を上った。
 しょうがないので花道も後を追うと、流川は案内図を見ながら右に曲がり、しかしそこにあるつりがね堂や、そこを左に曲がった所にある護摩堂にもお参りすることなく、次の数段の階段を上った。上ったところで前方を見たまま、流川はピタリと足を止めた。
 花道は流川の後を追ってその階段を上りかけた。そこで思わず声をあげる。
「うわ、なんだこりゃ。松か?」
 花道がそう呟いたのも当然な位、奇妙に横に長い松が、その階段のところにはあった。階段辺りではその枝(まるで根のようだが、きっと枝なのだろう)は腐りかけているらしく覆いをされていたが、覆いの下を覗くとそれでも皮一枚でつながっていることがわかった。すごい生命力である。
 感心して松の枝の先を目で追いながら、階段を登りきると、その松が本当に長いことがわかった。
「これ全部つながってんのか……?」
 花道は松の枝をずーーーーっと目で追った。するとその先に――満開の枝垂桜があった。
「……うわ……」
 びっくりして花道も流川の隣で足を止めた。流川はさっきからずっと、松になど目もくれずに、その場でその桜を見詰めていたのだった。
 多少段になった上から斜めに生えているその木は、無数の枝で辺りを囲っていた。いくつかの棒で枝を支えられてもいたが、それでもなお、枝が地に付きそうな程に枝垂れている。まさに今が満開の、豪華なピンクの絵だった。
「きれー、だなー……」
 はーっと花道はため息をついた。隣で流川も頷いた。
「……あれ?」
 枝垂桜は勿論、その枝で自分の幹を抱きかかえるように枝垂れているのだが、中心で守られているのがその幹以外にもあるように見えて、花道は歩を進めた。未だに言葉もないらしい流川も後をついてきた。
 桜の枝のカーテンを越えて、根元に近付くと、桜は自分の幹以外に、丸く刈り込まれた木も抱きかかえていることがわかった。というより、桜とその木は、根元がほとんど一体となっているのだった。
 丸く刈り込まれているため何の木だかわかりにくいが、ところどころぽつりぽつりと生えている若葉が、その木が楓であることを証明していた。
 それを見て花道は納得し、満面の笑顔で流川に訊いた。
「ルカワ、ここ、去年ポスターで見たとこか?」
 流川は桜に抱かれる楓を見上げながら、こくんと頷いた。


「去年ポスターで見たとこか?」
 満面の笑顔で、花道はそう言った。流川は頷きながら、花道が喜んでいることに安堵した。花道を喜ばせる誕生日プレゼントは何だろうかと、流川はここ二ヶ月ばかり考えていたのである。
 去年の誕生日に嬉しそうに桜を見ていたから、どこかに桜を見にいくか、と思い至ったのが二月の半ばだった。そして桜、ということで、前年に見たポスターを思い出した。
 
 去年の四月のことである。静岡の常誠高校まで練習試合に出掛けた帰りの駅で、流川は一枚のポスターに目を奪われて足を止めた。
 桜色に染まる空の下、一本の枝垂桜がその存在を誇示していた。
 桜の美しさに圧倒されて、そのポスターの前に立ち尽くす流川に不審を覚えて、最初に彩子が、それから宮城が、そして石井と桑田が、そして桑田に声を掛けられて花道が、ポスターの前に集まった。大なり小なり、皆がポスターを「綺麗」と褒め称えて見入っていた。
 そのうちに宮城がこのポスターに書かれた説明に気付いて「この木、桜と楓の合体木なんだってよ」と言って、花道と流川をからかった。
 流川はインパクトの強いこの桜が、楓との合体木であると知って、ますます興味をひかれた。そうして、その桜のある寺の名前を心に刻んだのだった。「JR向日町の善峯寺」と。

 花見に行こうと思った時には、だから当然、その寺の名前を思い出した。しかしあれはJR東海の「そうだ 京都、行こう」のポスターだった。ということは京都である。
(……遠い……)
 そう思ったが、やはりどうせならあの桜を見せたかったし、見たかった。楓と合体しているという様が、どうなっているのかも知りたかった。
 どうにかなるべく安く、できれば日帰りで行ける手段はないものかと、流川は模索した。部活をそうそう休むわけにはいかないので、日帰りという条件は外したくなかったのだ。
 まず姉に京都に行く方法を訊いたら、姉はノーマルに「京都?新幹線ね」と言った。そこで「なるべく安く」と注文をつけた。
「……夜行バスかなあ。でも前の晩に出発して、次の日の早朝に着いて、その晩に出発して、さらに次の日の朝に戻ってくることになるわよ?」
 それは日帰りとは言わないわよね、と姉は言った。
 それでも前日の練習にも翌日の練習にも行けるから、まあいいか……と思っていたら、姉が言ったのだ。
「ああ、あきちゃんに訊いてみれば?あきちゃん、安い旅行の仕方、詳しいわよ?」
 そんなわけで、流川はあきちゃんこと、富山に住む従姉に電話を掛けた。
「京都?いつ行く予定なの?四月一日?じゃあ、青春十八切符が使えるわよ」
と、彼女は教えてくれた。学生の長期休暇の時期に合わせて発売されるというその切符は、〇時から次の日の〇時を越えて電車が最初に止まる駅まで有効で、五回分で一枚の切符になっているらしい。一人で五日使っても、何人かで一緒に使っても構わないらしい。
「友達と二人で行くの?じゃあ往復で4日分使うからけっこういいんじゃないかなあ。余った一日分は何だったら私買ってもいいわよ?」
 青春十八切符のシーズンには必ずその切符を買い、旅行をしまくるという彼女はそう言った。更に青春十八切符で向日町に行く方法について、時刻表をめくりめくり、流川にレクチャーしてくれた。
 曰く、東京からだと、横浜からの乗車券を買って二十三時四十三分発のムーンライトながらに乗る。何故なら〇時を越えるのが横浜からなので、そこから青春十八切符を使えるから。流川の場合は、横浜より大船の方が近い。でも、大船で〇時二十六分に乗るには、前日に大船まで移動しないといけなから、大船までの電車賃がかかるけど、平塚から乗るんだったら、藤沢から既に青春十八切符を使える。おすすめは〇時九分平塚発、〇時二十二分平塚着の電車。それから〇時四十四分平塚発のムーンライトながらに乗り換える。
 曰く、ムーンライトながらは、名古屋まで(一部は小田原まで)指定席になる。指定席代金は510円。青春十八切符の時期は発売日に買わないと売り切れる。発売日は始発駅を出る日の一ヶ月前。四月一日に行く場合、始発駅の東京を出るのは三月三十一日なので、その一ヶ月前。でも二月三十一日という日はないので、その場合は三月一日が発売日になる。三月一日の十時にみどりの窓口に行くこと。帰りのムーンライトながらは四月一日出発で四月一日発売になるから、これも同じ日に買える。
 曰く、行きのムーンライトながらは、名古屋までの指定席が満席だった場合は、セミコンバートメント席を申し込む。代金は一緒だが、こちらの方が普通席より埋まるのが遅い。それもダメなら、4から6号車の、小田原までの指定席、更にそのセミコンパートメント席を申し込む。小田原から先は自由席になるが、そのまま下車するまで座れるので、特に不便はない。7から9号車も小田原まで指定席だが、名古屋止まりなので、大垣まで乗る場合には勧めない。
 曰く、帰りのムーンライトながらも同様に、満席ならセミコンパートメント席を申し込む。それもだめなら、4から9号車の、熱海までの指定席、更にそのセミコンパートメント席を申し込む。
 曰く、大垣には六時五十六分に着く。七時一分発の網干行きにはダッシュすれば座れる。これに乗っていれば九時三分に向日町に着く。
 その言葉に従って、流川は三月一日の午前中、学校をさぼって十時にJRのみどりの窓口に並んだ。結果、どうにか行きは名古屋までが指定のセミコンパートメント席、帰りは熱海までが指定のセミコンパートメント席が取れた。
 そしてその晩に、従姉から首尾はどうだった?と問う電話があった。彼女には善峯寺という寺に行きたいと言ってあったが、善峯寺についてインターネットで調べてくれたらしく、更に情報をくれた。
「善峯寺って、阪急の東向日からバスが出ているんだけど、本数がかなり少ないのよ。行きが九時十五分、十一時五十五分、十四時五分、十五時五十八分の四本だけ。帰りは九時四十四分、十二時二十三分、十四時三十三分、十六時二十五分の四本。しかもバス停からまだ三十分位歩くらしいの」
 どうでも九時三分向日町着のJRに乗って、東向日まで急いで歩き、九時十五分発のバスに乗らないとならないらしい、と流川は決意したものだった。
 それから前もって青春十八切符を買って、準備は整った。ラッキーにも四月一日は体育館が使えないために、部活がないことになったのはその後のことだった。たとえ部活があっても、この日ばかりはサボって、花道にもサボらせて、善峯寺まで引っ張っていくつもりでいたが。

 そして四月一日当日。念願の木のもとで、流川は念願の花道の笑顔を見ることが出来た。
「桜木……誕生日おめでとー……」
 桜の下で、ぼそっと流川は言った。
「おう、サンキュー!」
 にっこりと、花道は笑った。
 そうして二人して、じっくりとその木を見た。
「これ、桜が楓にもたれかかってるんだな」
 根元を見て、花道がそう言った。桜は、普通なら倒れそうな位に斜めに生えている。倒れないでいるのは、無数に枝分かれした楓が桜の幹を支えているからだ。
 それに気付いて流川はなんだかほっとした。楓が桜に抱かれているだけだったら大いに不満だったのだ。楓は桜を支えてもいる。それならばいい、と思う。木とは言え、自分達の名を持つものであるならば、やっぱり持ちつ持たれつでなければ。
 流川はこの木達が気に入った。花道も気に入ったらしく、こう言った。
「ルカワ、今度は秋にここに来ようぜ。楓が色付いた頃。きっときれーだ」
 流川はしっかりと頷いた。

 十分合体木を堪能した後で、二人は境内もじっくりと巡った。随分と登ってきただけのことはあって、京都の町を一望にできるポイントがあったり、また稲荷神社にキツネがまつられていたり、それに勿論ところどころの桜も綺麗に咲いており、随分と楽しむことが出来た。来る時には通り過ぎた観音堂で、最後にきちんとお参りもした。
 昼過ぎにこの寺を後にし、バス停までの道中にあった、土産物屋兼食事処で昼飯にした。よしみね乃里というこの店は、この時期には所有の竹林でとった筍料理を出してくれる。二人も筍料理を時間を掛けて心行くまで味わった。
 そして十四時三十五分のバスに遅れないよう、バス停に向かい、阪急東向日の駅から徒歩でJR向日町駅に。そこからまた青春十八切符で電車に乗った。
 青春十八切符はその日のうちであれば乗り降りし放題である。帰りの電車の時間まではまだ余裕があったので、二人は京都周辺をJRと徒歩で動き回って、なるべくお金をかけずに、あちらこちらの桜を堪能した。途中、夕飯も食べた。
 そして、二十一時五分に京都を出る電車に乗って、二十二時十五分に米原着。ここで二十五分発の大垣行に乗り換え、大垣には二十二時五十六分に着いた。ムーンライトながらは二十三時九分発である。あとはひたすら寝て、大船に着いたのは四時二分だった。
 藤沢に行く電車はまだない。二人は大船から花道の家までずるずる歩き、辿り着くなり泥のように眠った。しかし時間が来れば起き上がって二人揃って部活に行くだろう。そうして昨日は一日やれなかったバスケを思い切りやるに違いない。
 そう、この年の四月一日は、二人にとって珍しくバスケのない日だった。それでも、そしてものすごい強行軍でも、この一日は二人にとって楽しく、思い出に残る日になったのだった。

     ◇ ◇ ◇

 枝垂桜と楓の合体木は、徳川五代将軍綱吉の生母である桂昌院のお手植えである。この木の横には桂昌院の詠んだ歌の碑がある。

   春ははな 秋はもみじの むすび木は この世のしやわせ めでたかりけり

 桜と楓の結ばれることは、三百年の昔から幸せであったようである。

[コメント]

  初出:2002/05/04発行コピー本『春ははな……』
     (改稿分については)2005/05/04発行ペーパー
2002年の春に発行した『春ははな……』は、その春、車で善峰寺に行った記憶と、その二年前の秋に電車とバスで善峰寺に行った記憶に基づいていました。
2005年の春に、電車とバスでまた善峰寺に行ったところ、「こ、これは書き直さねば」というところがありました。なので21ページ目だけ書き直してペーパーとして配布しました。
お話付きペーパーはWeb上で公開することにしているのですが、これはいくらなんでもここだけ公開したら、何だかさっぱりわからない……。というわけで、コピー本の内容も公開することにしました。
尚、2005年時点で善峰寺は、このお話にあるより行きやすくなっていました。バスの終点が観光バスの駐車場付近まで伸びましたし、本数も増えましたので。(但し季節によって異なるので要注意)